2012年5月19日土曜日

レイアウトを巡る言説

mixiコミュニティ「レイアウト至上主義」内のトピック「レイアウトを巡る言説」より転載。

トピック内の平丸哲生さんは演出家として2009年「光の川」を監督。
「主題論(テマティック)」については自身のブログである僕らは少年演出家参照。

あんどう
WEBアニメスタイルの沖浦氏インタビューがかなり突っ込んだところまで聞いていて、非常に興味深いですね。

小黒 『AKIRA』でアニメーションに、レンズの感覚が持ち込まれたというわけではないんですね。
沖浦 それはないです。
小黒 そういう事をやってる人もいたというだけであって。
沖浦 ええ、そういう事です。
小黒 実際に、レンズを持ち込んだ作画が行われるのは、後の劇場『パトレイバー』なりの作品という事ですね。
沖浦 ま、そうですね。

小黒 今さんのレイアウトに関するショックはなかったんですか。
沖浦 それはありますね。「これは本当に人が手で描いたのか?」と思うくらいのもので。何がどういうテクニックなのか、分からんぐらいに巧い。何が起きたのか分からんぐらい(笑)。
小黒 (笑)。それは『AKIRA』のレイアウトとは全然違ってるんですか。
沖浦 違うかどうかというのは難しいんですが……。おそらく方法論が多少違うんでしょうね。見た事がないぐらいの完璧さでしたよ。

2
2004年08月15日 22:04

あんどう
コミュニティの説明に引用した、アニメージュ83年11月号掲載の宮崎氏と押井氏の対談(実は伊藤和典氏を加えた鼎談)は比較的早く自覚的に「レイアウト」というものについて演出家同志が語った貴重なものなのではないでしょうか?
そのなかで宮崎氏がレンズについて言及しているんですよね。
その部分を引用します。

宮崎「レイアウトというときには、一種の空間感覚がなければいけないわけです。ところがレンズの違いが描き手によってあるんです。エキセントリックに、スピーディーに物事を運んでしまうときは広角レンズでいいけれど、重くしなければいけない映画では、全部広角レンズじゃ困るんですよね。望遠も使わなければならないから」
(以下略)

3
2004年08月16日 00:22

あんどう
上記の発言を受けて、押井氏は山下将仁氏の名前を挙げています。
この頃は広角とは極端なパースを付けた、いわゆる金田風の作画が念頭にあったのでしょうか。
その後当の押井氏がより(映画的に)リアルな画面構成を指向し、本来の意味での広角レンズで見た絵を自作で使って行くわけですが、この間をつなぐのは何(あるいは誰)なのか。

4
2004年08月16日 06:36

あんどう
83年当時、押井氏は「オンリーユー」~「ビューティフルドリーマー」の時期でしょう。
「オンリーユー」でのレイアウトマン不在を嘆き、山内昇寿郎氏にレイアウトを見てもらったと発言しています。
山内氏はご存知の通り宮崎氏高畑氏との仕事も多くしていらっしゃる実力派です。(OH!プロ~テレコム?)
この時の押井氏の頭には、自作をアニメ「映画」として成立させる為に宮崎、高畑式のオーソドックスな標準、望遠レンズを意識した画面が必要という意識があったのでしょうか。(当時はそれでさえ特別なものであり、90分の映画すべてのカットをコントロールするのは不可能だったのかも知れません。そして僕ら観客はそこからはみ出た画面を「作画の暴走」等と呼んで無責任に祭り上げていたのかも…)

5
2004年08月16日 06:50

あんどう
押井氏は「オンリーユー」で山内氏にレイアウトチェックをしてもらったが、その結果スケジュールに無理が出たと苦笑したあと次のような発言をします。

押井「でも、いまレイアウトマンと呼べる人がいるんですか?」

それに対し、自身がアニメーター出身である宮崎氏はこう答えています。

宮崎「いないんですよ。結局、いいアニメーターじゃないと、いいレイアウトマンにならない。でも、いいアニメーター=いいレイアウトマンじゃないのね。建物や植物や雲の動きとか、いろんなことに興味を持っていて、画面作りにも興味を持っている。そういうことの上に、動きがちゃんとわかる、そんな人間はいないですよ。」

6
2004年08月16日 07:07

あんどう
ここで再びひとつ目の書き込みに戻ります。
WEBアニメスタイルのインタビューで沖浦氏は明言します。

小黒 『AKIRA』でアニメーションに、レンズの感覚が持ち込まれたというわけではないんですね。
沖浦 それはないです

一方、「アキラアーカイヴ」のインタビューで大友氏はこう言います。

大友「また当時のチャレンジとして、レイアウトを取る際、レンズとフレームを常に意識したというのがあります(以下略)」

そして同書の中で沖浦氏も、レンズやカメラ位置を意識し、そういう考え方をベースに作画していく感覚はそれまでのアニメーションには無かった…と発言しています。

7
2004年08月16日 07:19

あんどう
絵を描かない演出家である高畑氏。
その要求に、他に類を見ない密度と量で応えた宮崎氏。
より実写指向の強い押井氏。
漫画と言う、ある意味ではアニメーションよりも映画を意識し続けたメディアから来た大友氏。
そして、現在その方向をより高いレベルで量産し続ける今氏…。

誰がいつ何を考え、結果どのような作品になったのか。
そしてそれを支えたアニメーターの仕事。

いちミーハーファンとして、興味は尽きません。

8
2004年08月19日 22:35

宮崎駿「すぐアオリでガオーッってのは、本当は力のない人間が、なにか強く見せているって感じがしてね。なるべく自然なアングルがいいんです。自然なアングルといっても、やっぱり人間の目なわけで、広角レンズを使えば、当然手前にくると速くなり、望遠レンズだと接近してこないとか、そういう機械的なものより人間の見た目に近いものが好きだということです」(『アニメージュ』81年8月号)

押井守「黄瀬のレイアウトっていうのは、遠景と中景と近景でパースが違うんです。多分あれは、理屈じゃなくてあいつの感覚なんだけどね。そうしないと街角に立ってるという臨場感が表現できないんですね。(略)。間違ってないだけじゃ不十分なんです」(『アニメスタイル』第2号)

今も昔も、結局は、(厳密さよりも)絵描きの主観が重視される「絵」であることには変わりが無いのですが。ある時期から演出の意図を汲んだ「絵」へと移行したことで、アニメの描ける「物語」の幅が広がり、作品を深化させたと思います。あるいは描かれる物語の側が、それを必要としたのか。単に見栄えの問題だけでなく、日本のアニメ特有の「複雑なストーリー」を支えたであろう「レイアウト意識」に興味があります。色んな角度から語れそうなテーマですね、レイアウトって。

9
2004年08月20日 00:11

あんどう
>bonoさん
はじめまして。
二つの引用、おもしろいですね。
僕が受けた印象と逆のことをお二人が発言されている。

描かれる物語の側がそれを必要とした、というのは事実だと思います。
最たるものは劇場パトレイバーでしょう。
押井氏がコンセプトフォトという役職名で樋上氏を使ったのも、自身の東京への悪意(?)を表現するためには樋上氏のカメラレンズがとらえた「現実」(あるいは現実への視線)を共有のイメージとして絵描きに提供(強要かな)する必要があったと思うんです。
「間違ってない」ことが必要だった。
その上でそれ以上の仕事をアニメーターや背景の方がされたんでしょうね。
写真のトレスというのは劇画以降マンガの世界では一般に使われる手法ですがアニメーションの画作りとしては、やはりそれまでは邪道だったんですかね?
省力化とクオリティアップ、そして映画全体のコントロールという意味ではとても有効な手段に思えるのですが。(素人考えですけど)

高畑宮崎作品もロケハンを行った成果が絵となって十分画面に映し出されていますが、bonoさんが引用されているようにそれは天才的なアニメーターである宮崎氏の目を通したものです。
だからハイジ三千里のレイアウトは驚異的なものになった。
それでもやはり「レンズ」を持ち込んだのは、宮崎氏だと思うんですよねえ。少なくとも標準と望遠に関しては。

どうも僕がやっているような印象批評のレベルでは限界がありそうだ。
それと、富野氏~庵野氏という流れとレイアウトというのはどういう見方がありますか?(もちろんそこには高畑宮崎両氏も関係してくるでしょう)
何か面白い視点があるような気もするのですが、僕自身は良く分かりません。
別にトピックを立てる議題かもしれませんね。

10
2004年08月20日 00:25

あんどう
補足と訂正です。
上の発言で「写真のトレス」と言ってしまいましたが、「写真を作画の資料(それと作品全体のイメージの統一、共有)として積極的に使う」ですね。
誤解を受けそうな表現すみません。

そういえば、王立はレイアウトという面ではどういう位置にあるんでしょう。
ううむ、出崎作品りん作品とかもあるしひとつひとつ検証して行かないと全体像は見えませんね。

11
2004年08月20日 14:06

あんどう
bonoさんの引用された文章が気になって、ひさしぶりにアニメスタイル2号の押井監督インタビューを読み返してみたら、もうかなりの事がこの中で語られてしまっていますね。
ひとつひとつ引用したいところですが、このコミュに興味をもって覗いていらっしゃる皆さんは手元にお持ちでしょうから原文をあたっていただくとして。
ただどうしてもひとつ気になる部分が。

押井「宮崎さんのレイアウトって、実はリアルじゃないと思うんですよ」

僕がこのトピで宮崎氏のレイアウトについてふれた場合、基本的には高畑演出の下で描かれたものをさしてきました。
つまりこれらは押井氏の言う通り「高畑さんのレイアウト」なんですね。
押井氏は宮崎氏のレイアウトについて、こう続けます。

押井「多分、アニメーター的にフレームの中に、こう物を配置すると嬉しい、気持ち良い、という所からスタートしてる。」

このあと赤毛のアンの例を出し、宮崎氏のレイアウトは、レイアウトとしてすばらしくても、シチュエーションと結びついていないとも述べています。

確かにコナン以降の宮崎作品のレイアウトの中には、あまりにも1枚絵として完結していて「このフレームの外には、世界が無いんじゃないか」と思わせるものがありますね。
でもそうなると、高畑作品の宮崎レイアウトとたとえば火垂るの百瀬レイアウトの違いというのを考えなければなりません。

あと、これはまったく直感だけなのですが、近藤勝也氏がゲーム「玉繭物語」で描いたコンテ(もちろん宮崎氏直系の、そのままレイアウトとして使えそうな緻密なものです)を見ると、押井氏が指摘した「リアルではない」という意味がより鮮明に見えてくる気がします。

12
2004年08月20日 19:33

あ、確かに、劇場版『パトレイバー』のレイアウトは、物語を描くための必然ですね。そういう意味でも特異な作品である訳か…。

では、あんどうさんのお話を継ぎまして、分かる範囲で。

>写真を作画の資料として

『METHODS』の渡部隆氏インタビューで、押井氏のように制作前に写真を撮る監督は珍しいという話題が見られます。この問題については、「舞台がどこに置かれたのか?」という点、実景をそのまま利用できるアニメ作品がどれほどあったのか?に関わるように思います。
例えば、『聖戦士ダンバイン』の「東京上空」の回で描かれた東京はかなりリアルだった記憶がありますが、作品全体を眺めると、半ファンタジーの世界であるわけで、それを貫けるタイプの作品ではない。調べてみる必要がありますが、多分、多くの作品がピンポイントでは写真資料を使っていたでしょう。それを作品全体に適応したのが珍しいというだけで。

また、少し話がずれますが…。演出助手時代の高畑さんが、『わんぱく王子の大蛇退治』制作時、伊勢神宮へのロケハンに同行した(が、取材許可を取らなかったので何も見られなかった)という逸話が残っています。仮に、ロケハンが成功していても『わんぱく王子』にリアルな背景が付いたとも思えませんので(笑)、恐らく、イメージを拾うためのロケハンであったろうと思いますが。それと同様に、大抵のアニメは、リアルなものを描きたい訳ではなかったのだろうと思います。写真を参考にしたとしても、『パトレイバー』のような形で直接画面に現れるようには作らなかったのではないか。


で、話を渡部氏に戻します。80~90年代の「レイアウト」の分野に関しては、氏が大きな役割を果たしたようです。『アニメージュ』02年2月号の「この人に話を聞きたい」の今敏氏の回で少し触れられていますが。今氏自身も多大な影響を受け、渡部氏がいなかったら現在のアニメの状況は無かっただろうという話もされています。
また、渡部氏は、『王立宇宙軍』のレイアウトにも関わっている訳ですが。この作品が(レイアウトに限らず)過剰に緻密な画面を目指したことは、それ以後の「劇場アニメ=緻密なレイアウト」の流れに加担しているはずです。


>富野氏~庵野氏という流れ

富野氏でレイアウトと言えば、『機動戦士ガンダム』。第1話のみ、安彦良和氏が全カットのレイアウトを描いています。高畑・宮崎作品に参加し、影響を受けた富野監督がここぞという場面で実践したということでしょう。また、後の安彦氏の監督作品は、そのシステムを踏襲した作りになっているとか。この辺りは、『Gazo』vol.1に詳しく載っています。

ただ、富野氏~庵野氏に関しては、コンテ主義といいますか、「絵コンテさえ抑えれば大丈夫」という形で作品をコントロールしている印象が強いです。あまりレイアウトという観点から語られているものを見た覚えがありません。実際のところ、どうなのでしょう?

高畑・宮崎コンビの直後から、レイアウトに対する意識は急速に高まったと思いますが、その大部分は、恐らく「フィルムの連続性」に注目したものではなかったかと。カットごと、原画担当者ごとに、物の大きさや配置の微妙なずれが起こらないように、映像を統一するためにレイアウトを描く・描かせるというシステム。押井氏の「レイアウト」は、それに加えて「映画的に正しいレイアウト」を追求しているという点で一線を画すのだろうと思います(そして、高畑氏も)。


あと、隙間を埋めるために、『ニルスのふしぎな旅』に関するインタビューを引用します。
鳥海永行「これはストーリー性で見せる話ではなく、映像で運んでいく作品と僕らは捉えているわけです。そのためには細部にわたる丁寧な表現は勿論のこと、奥行きのあるレイアウトにもポイントをおいています」(『アニメージュ』80年6月号)

鳥海氏は押井氏の師匠にあたるわけですが、この発言に見られるレイアウトで見せる・語るという発想に少しだけ似た匂いを感じます。

13
2004年08月21日 07:52

あんどう
bonoさん
興味深い書き込み、ありがとうございます。
ちょっと話題が広がってきましたね。いくつかのトピックに分けたほうが良いのかな。

>多分、多くの作品がピンポイントでは写真資料を使っていたでしょう。
そうなのかもしれませんね。
ただ、やはり僕の中にある一般的なTVアニメの風景と言うのは、漠然と下町であったり港町であったり山の手の学園であったりあるいはどこか外国であったり…。
作品や現場がと言うより、見る側がそれを望まなかったというのもあるかもしれませんね。そこまでの情報量は必要無い、と。
ちょっと思い出したのですが、その中ではクリーミィマミの望月回というのは当時異彩を放っていた気がします。
もちろん漠然としてはいるのですが、そこに何がしかのリアリティを自覚を持ってプラスしていた印象があります。(ああ、実証主義じゃなくてすみません…。)
望月氏はのちに本山であるジブリで海がきこえるを作るわけですが、あの作品のレイアウトや美術を最終的にコントロールしたのが望月氏なのか近藤氏なのか詳しくは知りません。
この辺DVDにオーディオコメンタリーが入っているんでしたっけ?

うーん、劇場、TV、OVAという流れが同時にあって、それぞれポイントになる作品があり加速度的に画面のクオリティが上がっていった80~90年代に何が起きたのか。
レイアウトに絞ったアニメ史を読んでみたいですねえ。


富野氏~庵野氏という流れに関しては、おっしゃる通りレイアウトという面からは見えづらい部分がありますよね。
だからこそ何かあるのかなあ?と感じた次第です。
宮崎高畑両氏の仕事を間近で見ていた富野氏と庵野氏がレイアウトに対し無自覚であるわけはないですよね。
勝手な想像ですが、この2人はどこかで「あきらめた」のではないかと。
特に富野氏は。
なにかその、TVの現場と言う現実を背負って作りつづけた氏の仕事を、レイアウトという面から見返したら何が見えてくるんでしょうね。(絵描きとの戦いか…)
めぐりあい宇宙を中心に据えると良いのかな。いや、かえって混乱するのか?
やはりこれは別トピックですね。

bonoさんの、80年代のアニメージュからの引用は面白いし貴重ですね。
お時間があれば、作家ごと作品ごとにトピックを立てて議論や検証(というか雑談でいいんですよね、楽しいし)できればと思います。
特に渡部氏に関しては時系列を追って整理したら、高畑宮崎作品以外のレイアウトに関しては流れが見えてくるかもしれませんね。

14
2004年08月21日 16:50

富野氏に対する「あきらめた」という想像は、かなり的を得ているように感じます。そう感じるだけで、「そうだ!」と言い切れないところが歯がゆいのですが…(笑)。色々な発言を読んできて、絵描きに対するあきらめ故のコンテ主義という印象がありますね。

あと、高畑・宮崎以外のレイアウトで気になるのは、押井氏に直接影響を与えた小林七郎氏。他の演出家と組んだ際も、何かしらの影響を与えていたのではないかと想像できます。調べれば、小林七郎-出崎統のラインでも何か出てくるかもしれませんね。

出崎氏に関しては、全く(本当に全く)知らないので、詳しい方の発言を待ちたいところですが…。『アート・オブ・ウテナ』の幾原邦彦・小林七郎対談で、出崎監督の『家なき子』の回り込みに関する話題から発展して、こんな発言がありました。

幾原「出崎さんの凄いところは、リミテッドアニメーションの手法を完成させたところなんだよね。(略)お金が無くて動かせないといったときに、出崎さんは実写を模倣するという方法を発明したんだよ。画面の中にレイアウトを切るとき、カメラレンズを想定する。「密着」「望遠」これを初めてやったのは出崎さんなんだよね」

この辺も少し気になる所です。なんだか収拾つかなくなってきましたが、僕としてはそろそろ弾切れです(笑)。

15
2004年08月21日 21:28

>庵野氏がレイアウトに対し無自覚であるわけはない

貞元義行「庵野さんはキャラが動くこと自体には、そんなに興味のない人なんじゃないかなと、僕は思うんですけどね。レイアウトにはすごくこだわるけど、動きそのものには、そんなにこだわらない」(『スキゾ・エヴァンゲリオン』)

庵野氏のレイアウト観も、調べていけば何か出てくるかもしれません。実相寺作品との絡みで、何か発言していそうな気もしますが…。

16
2004年08月22日 01:59

>一般的なTVアニメの風景と言うのは、漠然と下町であったり港町であったり山の手の学園であったりあるいはどこか外国であったり…。

もしかしたら、(一部の作品を除いて)舞台を限定しないことが求められたのでは、という気もします。ファンタジーを描くためには、資料の匂いを消すことも重要ですよね?資料を参考にしながらも、舞台は常に「どこか」でなければならなかった、とか。それと「リアリティに無自覚な作品」が同時に存在していたような…って、もはや完全に想像ですが。

17
2004年08月22日 05:24

あんどう
>動きそのものには、そんなにこだわらない
とは言っても庵野氏は状況が許せば動かしまくってますね。劇エヴァとか。
御自身がある種天才的なアニメーターなのですから、当然と言えば当然でしょうが。
「レイアウトにはすごくこだわる」というのは主にテレビの場合ですかね。
負け戦をしないためには、コンテ~レイアウトの段階にこだわらざるをえない、というか。
だから動きが少なくても画面が保つレイアウトを求める。(仰る通り実相寺風、あるいはアントニオーニも好きなのかな?)
そういう意味では「あきらめた」と言うのはちょっと違うのかもしれません。

>幾原「出崎さんの凄いところは、リミテッドアニメーションの手法を完成させたところなんだよね」
うわあ、これはまた同意したいようなしたくないような…。
僕も出崎氏に関しては全くの素人なのですが、氏の作品を見た後の満腹感、実写を見た時と同じような満足感と言うのは、その手法と密接な関係があるようには感じます。(幾原氏はそれをもって「リミテッドアニメーションの手法を完成させた」と発言しているのでしょうか)
これまた印象でしかありませんが、出崎演出の美味しさというのは「実写の模倣」と言うより「実写の誇張」のような気がします。(高畑演出と真逆?)
レンズも、現実を写すためにあるのではなく情感を写すためにある。
うーん…やはり出崎氏に関しては詳しい方の意見を待ちたいです。

小林七郎氏もキーパーソンのお一人かもしれませんね。
美術と演出の関係を考えようと思ったらはずせないでしょう。
そういえば前述のクリィミーマミも小林美術ですねえ。
望月氏の師匠というのは芝山小林両氏になるのでしょうか?
もしそうなら、そちらまで話しを広げると恐ろしいことになりそうですね…。

18
2004年08月22日 17:07

そろそろポイントとなる人物に関しては出揃ったのでしょうか。他の方の意見も、是非お聞きしたいのですが…。

>芝山小林両氏
この辺りに関しても、詳しくはないのですが…。Aプロダクションで活躍された方々ですから、高畑・宮崎両氏は勿論、出崎氏の流れも汲んでいる。特に、芝山氏は『ガンバの冒険』でレイアウトを務めてもいる。レイアウト史には、大きく分けて、押井氏に収斂していく流れと、それ以外とがあると思いますが、その傍流の方として考えられるかもしれません。
望月氏に関しては、不勉強で全く分かりません。(シンエイ動画繋がり?)

19
2004年08月22日 18:18

言説ではありませんが、データがまとめられていたので参考として転載します。TVのレイアウト史に関しては、Aプロの存在が大きそうです。

『アニメージュ』85年1月号のAプロ特集より

<Aプロ出身者の主なレイアウト参加作品>
宮崎駿「アルプルの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」
芝山努「ガンバの冒険」「ルパン三世(劇場版)」「ドラえもん のび太の恐竜」「怪物くん」
大塚康生「おれは鉄平」
椛島義夫「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」「グリックの冒険」
本多敏行「ドラえもん のび太の大魔境」「海底鬼岩城」
小林治「クリィーミーマミ・永遠のワンスモア」

20
2004年08月22日 18:32

×TVのレイアウト史に関しては、
○TV周辺のレイアウト史に関しては、

すみません、この作品群はテレビに限りませんね。訂正します。

21
2004年08月22日 18:52

あんどう
もはや「レイアウトを巡る言説」ではくくれなくなっていますが、楽しいのでこのまま続行したいのですがいかがでしょうか。
基本的には資料を拾いながら議論、検証、雑談を行う「レイアウト総合」という感じで。

望月氏ですが、芝山努・小林治両氏とのつながりは亜細亜堂です。
マミはご存知の通りぴえろ制作なのですがCDが小林氏で、ローテーションの中に望月コンテ演出の亜細亜堂若手回があったのです。
これが時にシリーズから浮いてしまうほどみずみずしく、また当時のテレビシリーズとしてはとても緻密なものだったんです。
(余談ですが、これらの回は作画も高レベルで後藤真沙子作監以下、洞沢由美子、高木弘樹、柳田義明、児山昌弘といったアニメーターの名前を知ったのもこの頃でした。児山氏は後のOVAかな?手元に資料が無い…)
実写指向の強い絵コンテ、レイアウトとして、放映当時のアニメージュにも取り上げられていた記憶があります。(それこそ細田守のように!)
もし望月氏の師匠筋に小林氏だけでなく芝山氏も含まれるなら、それこそ話しがドラえもんまで行ってしまい、僕はもうまったく追いきれなくなります。

なるほど、Aプロですねえ。
この辺のアニメ史は、レイアウトだけ取り上げて語るのは失礼なんじゃないかという気になってきますね。
Aプロに関しても僕は専門の方のご意見がお聞きしたいです。

22
2004年08月22日 22:33



僕も大変楽しいのですが、これで良いのかな…(笑)。

>放映当時のアニメージュにも取り上げられていた記憶があります

それらしき記事を見つけましたので、参考資料として載せておきます。(『アニメージュ』84年8月号より)

23
2004年08月23日 23:34

あんどう
あ、これです。たぶん。
懐かしいー。
もっと早い段階で注目されて記事になっていたような気もするんですが。
踏み切りのシーンの図版があったかなあ…。
望月氏はその後「光の伝説」(伊藤つかさが声をやてました)のSDをされたりして、で「海が~」をジブリで撮るわけですがじつはこの作品も重要なのかもしれませんね。
高畑宮崎システムの流れの中で、単に模倣とは言い切れない部分があるような気がします。

ここでちょっと宮崎氏に話しを戻します。
氏の東映入社が1963年。
そこにいたる思春期から青年期にかけて、宮崎氏は手塚治虫の影響を強く受けながら漫画家を志していました。(手塚治虫に対するアンビバレントな気持ちが綴られたコミックボックス掲載の文章が有名ですね。)
ここからは勝手な仮説というかもはや妄想かもしれませんが、こういう視点はどうでしょう。
「宮崎駿は漫画の世界からアニメの世界に来た人間である」
当時同期で東映に入社されていた方々がどのような経歴だったかを調べてみなくては分かりませんが、少なくとも宮崎氏がアニメーターになる以前に大量の漫画原稿を描いていたのは事実でしょう。
だからこそホルスで頭角をあらわした時、すでにその絵はそれ以前のアニメーターが描いたスケッチには無いような物語を含んでいた。

宮崎駿は漫画の世界から来た。
押井守は映画の世界から来た
さて、では高畑勲はどこから来たのでしょうか?

24
2004年08月25日 01:04

>もっと早い段階で注目されて記事になっていたような気もするんですが。

恐らく、僕の持っていない号に載っているのだと思います。少しずつ集めてはいるのですが、まだかなりの抜けが…(笑)。この頃の『アニメージュ』の密度はちょっと異常なので、是非全て揃えて置きたいです。


>さて、では高畑勲はどこから来たのでしょうか?

高畑氏をアニメの道へと進ませたのは、『やぶにらみの暴君』や『雪の女王』のような、深い物語性を備えた外国製アニメーション映画のインパクトでした。多くのインタビューは、そこで話が終わっているのですが、そもそも、氏は何故そのようなマイナーな作品に興味を示したのでしょうか?当時、…例えばディズニー作品がどれくらい一般層に観られていたのかは分かりませんが、それらに比べても、明らかにマイナーなアニメ映画です。まして、高畑氏は漫画に縁のあった人物でもない。この謎には、以下のインタビューが、応えているように思います。

「ぼくは、ファンとしては古今の絵画を非常に好きで、けっこうちゃんと絵を見ているほうだったんです。アニメーションを描いている側の人というのは、かならずしも他人の絵を見る必要がないので、古今の絵に親しんでいるわけではない人がけっこういますけれど、ぼくは高校あたりから絵を見はじめていて……すると、古今の名作に比べれば、アニメーションには、たいしたものではなく思えてしまうような絵が、いくらでもあるわけです。」
(http://www.1101.com/ghibli/2004-08-03.html)

高畑氏は、絵画鑑賞の延長として、アニメーションにも興味を持ったのではないか?もし、それが正しければ、どこから来たのかも分かりそうです。高畑氏にとっての「けっこうちゃんと絵を見ている」は、常人のそれとは全く別の次元の意味を持っていることでしょうから…。何年か前に、高畑氏は、鳥獣戯画をアニメ監督の観点から読み解いた本を書いています。が、むしろ順序は逆で、高畑氏は多くの絵画から学んだものをアニメに持ち込んだのではないでしょうか。そして、「たいしたものではなく思えてしまうような絵」を正していくことが、アニメの絵、ひいてはレイアウトをも変化させていったのでは。

高畑氏は絵を描かない演出家ですが、意外にも絵画の世界から来た…のかもしれません。

25
2004年08月25日 05:17

あんどう
んん。これは僕が考えてたよりずっと面白い流れになって来ましたね。

高畑勲は絵画の世界から来た。

この視点から高畑演出、あるいは宮崎氏と共に作り上げたレイアウトのシステムが検証された事ってありますか?
もしもこのまま話しが広がるようなら是非お願いします。
また他の方のご参加も重ねてお願いします。
ちょっとジックリ考えてみる価値のある見方なのではないでしょうか。
bonoさん、なかなか刺激的な仮説をありがとうございます。

26
2004年08月28日 03:28

うぅ、話が…広がりません。僕の知る限り、そのような視点で検証されたことはありません。

しかし、高畑氏は仏文科卒ということで、順当に考えれば「文学の人」なのですが、あまりそういう風には見えないんですね。アニメという表現に対しても、「キャラクター」を動かす宮崎氏に対して、高畑氏は「絵」を動かす人というイメージがあります。

27
2004年08月28日 05:49

平川哲生
最近のことですが、望月氏のテレビ作品に参加したとき、キャラ設定などといっしょに『母をたずねて三千里』のレイアウト参考が付いてきたのを憶えてます。もちろん宮崎氏の手によるものです。

パースとは、消失点とは、レンズとは、などの解説がA4一枚にざっくり描いてあるもので、馬車が遠くから向かってくる図は、見たことのある方も多いと思います。

そのレイアウト参考への望月氏の付言で
レイアウトの極意は、消失点は無限のかなたにある、という認識(大意)
理屈よりも見た目を優先するべき
とありました。

このコミュの流れとはちょっとずれているとは思いますが、まとめると、

・空間の把握(レイアウト)は描くのがむずかしい
・現在の望月氏は宮崎氏の方法で作品をコントロールしようとしている

また、なんかありましたら書き込みます。

28
2004年08月28日 09:51

あんどう
うーん、やはりこの仮説から広げて行くのはちょっと大胆すぎますかね。
ただ新しくとても面白い視点だと思うので、今後高畑氏のインタビューや著作を読む上で何か気づいたらまたそこから話しが出来たらと思います。
今までは僕も高畑氏を「言葉の人」ととらえていましたから。

平川さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。
何よりこのコミュの最大の弱点である、現場からの視点やご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。

>『母をたずねて三千里』のレイアウト参考が付いてきた
望月氏が現在もその様な事をされているとは、興味深いですね。
やはり基本的なレイアウトの技術や概念は「ハイジ」「三千里」の時点でほとんど完成していたと考えて良いのでしょうか?(僕はこの時点ではっきり自覚的にレンズが持ち込まれたと考えています)
「レイアウトの極意は、消失点は無限のかなたにある、という認識(大意)」
これは、レイアウトを取る時いわゆる(レンズが持ち込まれる以前の)背景原図のようなキャラの隙間を埋める線の集まりではなく、キャラを立たせるための空間として考えろと言う事でしょうか。
それを意識した上で
「理屈よりも見た目を優先するべき」
と言う事なのか。

・空間の把握(レイアウト)は描くのがむずかしい
・現在の望月氏は宮崎氏の方法で作品をコントロールしようとしている
少し立ち入った質問になり大変恐縮ですが、実際の現場では一部の劇場作品を除き時間やギャラの事を考えると高畑宮崎両氏が30年前に作ったシステムが今でも有効と言う事なのでしょうか。
あるいはそれが望月氏の作家性に合っているだけで、それぞれの現場でさまざまな試みがされているのでしょうか。

29
2004年08月28日 15:56

平川哲生
>基本的なレイアウトの技術や概念は「ハイジ」「三千里」の時点でほとんど
>完成していたと考えて良いのでしょうか?
>(僕はこの時点ではっきり自覚的にレンズが持ち込まれたと考えています)

これは、なんとも言えません。
宮崎氏の個人的レベルでの完成はあったかもしれない。そういう答えしか出せないと思います。レンズについても断定的な発言はできないとわたしは考えます。

たとえば、バストアップで、画面の左手前に後ろ向きの人物、右奥に正面向きの人物がいて、ふたりが向かい合っているシーン。古くからアニメでは、こういうふたりの距離を実際よりも近く描くことがありました。手前の人物の頭と、奥の人物の頭がほとんど同じくらいの大きさで描かれる、というような。
これなどは望遠的なレイアウトであると言えなくもない。

「はっきり自覚的にレンズを持ち込む」が、どの程度はっきり自覚的かはわかりませんが、当時の制作者の発言が残ってないかぎり、やはり、なんとも言えないのではないでしょうか。出崎氏は若いころから自覚的なレンズの意識があったのではないかと思われますし…。

>>「レイアウトの極意は、消失点は無限のかなたにある、という認識(大意)」
>これは、レイアウトを取る時いわゆる(レンズが持ち込まれる以前の)
>背景原図のようなキャラの隙間を埋める線の集まりではなく、キャラを
>立たせるための空間として考えろと言う事でしょうか。

「キャラを立たせるための空間として考える」のはレイアウトの大前提だと思われます。
どんな巨漢でも、消失点の位置にいるなら、それこそ点のように小さく見える。ところが、これを大きく描いてしまうアニメーターが、テレビではけっこういるんです。望月氏の発言は、こんな凡ミスを事前に防ぐためのものだと思われます。

>「理屈よりも見た目を優先するべき」

たとえば四畳半のせまい部屋を一点消失で描くと、なぜか広い空間に見えてしまうことがあります。壁や地面の傾き方は、一点消失の理屈から言うとまちがってない。しかし見た目の印象とはだいぶちがう。こういう場合は、見た目の印象に近づけるべく、理屈にとらわれずに描く必要がある。変則的な二点消失で描く人もいたりします。
『もののけ姫はこうして生まれた』で宮崎氏が、この変則的な二点消失のレイアウトを解説するシーンがありました。「一点消失は西洋人の目の錯覚だ」という名言?が楽しかったです。湖川さんの作画技法でも、似たような描き方が紹介されていました。

>少し立ち入った質問になり大変恐縮ですが、実際の現場では一部の劇場作品を
>除き時間やギャラの事を考えると高畑宮崎両氏が30年前に作ったシステムが
>今でも有効と言う事なのでしょうか。
>あるいはそれが望月氏の作家性に合っているだけで、それぞれの現場で
>さまざまな試みがされているのでしょうか

テレビアニメの世界では、レイアウトは多くの場合が原画マンまかせです。徒弟制度の結果、弟子が師匠に似たレイアウトを描くようになるケースはありますが、悲しいかな、業界内で統一されたレイアウト技術や概念はないのが実情です(だからこそ『METHODS』に注目が集まるという…)。

そういう意味では、設定という早い段階から作品の求めるレイアウトのイメージをつくっておく、という高畑宮崎両氏のシステムはいまでも有効だと思います。最近の作品だと『マインド・ゲーム』が設定の段階でレイアウトのイメージを固めていました。望月氏も同じように、早い段階でレイアウトのイメージをつくることで、凡ミスを防ぎ、作品の質をコントロールしていたのだと思います。

長文になってしまいました。
まだまだ語りたいことはあるんですが、また今度にします。

書いてて思ったんですが、まずレイアウトという言葉の定義をしっかりした方がいいかもしれません。むずかしそうですが…。

30
2004年08月28日 19:55

あんどう
>平川さん
まず、不躾な質問に対しお答えいただいたことにお礼申し上げます。

>宮崎氏の個人的レベルでの完成はあったかもしれない。そういう答えしか出せないと思います。
これはある意味で同感です。
ただ宮崎氏(演出の高畑氏も含め)の技法や概念があの時点で完成と言っていいレベルまで達していたとしたら、その後のレイアウトから見たアニメ史の起点にできるのではと考えています。
だからこそ僕は、「レンズを持ち込んだのは誰か?」という疑問の答えを知りたいのです。
>レンズについても断定的な発言はできないとわたしは考えます。
このご意見とその後にあげていらっしゃる例についても、ある意味ではその通りだろうと思います。
僕が繰り返し「自覚的に」と書いているのは、以前読んだ宮崎氏の次の文が非常に印象的だったからです。

「たとえば高畑さんと打ち合わせをして、壁のほうからこんな感じで見て欲しいと要求されたとします。僕が自分の部屋を思い出すような感じで「そこには壁があるよ」と言う。壁とのすきまが30センチしか無いので、カメラは入れないと思うわけです。「入ってくれ」「入れない」「演出としては入ってもらわないと困る。壁に穴をあけろ」みたいな話になったりするんですね。」
(以上引用、「天空の城ラピュタ 絵コンテ集」昭和61年10月1日発行より)

これはナウシカのコンテ集に入っている、テレコム時代の新人研修用に描かれた「アニメーション画面処理について」を同書(このラピュタコンテ集は公開当時発行のものです。現在のものに入っているかは分かりません)に再録するにあたって、「若き演出家との対話」というタイトルで佐藤順一氏に対しレイアウトの項目内で宮崎氏によって語られたものです。
ここから話を始めるなら、僕の発言は本来「カメラを持ち込んだのは誰か?」と表現すべきなのかも知れません。
ただ高畑、宮崎氏の方法論を経てその後何がしかの試行錯誤があり押井氏のパト2に至ったとしたら、やはり「レンズ」と言いたいのです。(素人の無責任さで!)

ここでも何度かお名前の挙がっている出崎氏ですが、少しネットで調べてみました。
氏も虫プロ入社以前に漫画をお描きになっていたんですね。
また、高畑宮崎氏と仕事上の接点は無いと思っていたのですが、別名義で旧ルパンの絵コンテをやられていたと知り驚いています。(不勉強だ…)

>レイアウトという言葉の定義
そうですね。きちんとしなければならないのですが、難しいですね。
僕も、誰がどの段階でコントロールしてるかごっちゃにして話してますね。
宮崎氏はレイアウトに関して上にあげた文の中で次のように言っています。

「背景と作画と色指定を含めて統一して画面を作っていくパートが、作監、美術監督、仕上げのほかにもう一ヶ所ないと、どうにもならないと思いました。そこで、僕が真ん中に立ってそれぞれの分業パートを結びつける「のり」になることになったんです。」

31
2004年09月01日 05:55

あんどう
ちょっと書き込みが途切れてしまいましたね。
僕も新しいネタは無いのですが、古い本を引っ張り出したのでそこからの引用をいくつか。

_ホルスの中にもずいぶん凝ったアングルがありますけど。
宮崎「いや、あれはパクさんが、高畑演出がいろんなカメラワークを工夫してて、それで。
僕はあの仕事の中でいろんな事を覚えていった段階ですから   ね。実際まだ24、5歳ですから」
(漫画の手帖 11号 1983 SPRING 宮崎駿さんのお話し第2回より)

_絵コンテは全部高畑さんが?
桜井(美知代)「そう。」
_あの絵コンテからレイアウトを起こすのは至難の業では?
桜井「そんなことはないですよ。高畑さんのコンテってね、ちゃんと奥行きからね位置関係までキチっとしてて、高畑さんのイメージがすごいあるわけ。で、その通りに描かないと怖いんですよ。」
(漫画の手帖 13号 1983 SUMMER 「赤毛のアン」に関するインタビューより)

宮崎「その(ホルスの)ころの森(康二)さんと高畑(パク)さんの戦いはすごかったですよ。どなりあってるわけではないんです。森さんはどなるような人ではないですから。でも、互いに頑迷固陋なんです。森さんは平面的な画面が好きですから、人をタテに置くようなエキセントリックな画面は、何とかして変えようとします。それをパクさんが戻すんです。最後にもめたとき、ひとこと森さんが「フィルムで見せてもらいます」。そういう戦いをやっていました。」
(ラピュタ絵コンテ集所収「若き演出家との対話」より)

以上、レイアウトとは直接関係のない話もまざってますが、面白かったので。
桜井美知代さんは宮崎氏が抜けた中盤以降「赤毛のアン」のレイアウトを担当された方ですね。
では最後に、もひとつ。

森「僕は絵はヘタだけども、芝居をさせたら負けないぞって感じで描いてたから…。」
(漫画の手帖 7号 1982 SPRING 森康二インタビューより)

なんだか身が引き締まる思いです。

32
2004年09月06日 01:56

富野由悠季氏のレイアウト観が、著書の『映像の原則』に少し載っていました。

富野「現在の制作現場で、作画作業のプロセスとして”レイアウトを出す”という段階が設けられてしまっていることは、演出的には大変困っています。(略)。とりあえず作画作業が始まったときに、スケジュールがこなせないアニメーターが、カットのレイアウトの絵を一枚だけ描いて、スケジュール表に作業が進んでいるように見せていたものが、いつの間にか作業プロセスの一環と見なされるようになったのです。」

富野「むしろ、うかつに背景がキッチリ描かれた一枚絵(=レイアウト)がありますと、その上に動きをプランニングすることができませんので、邪魔になることの方が多いのです。アニメーターが最初に描かなければならないのは、カット内の秒数の全体の動きのプランを示したものでなければなりません。アニメという動くものを絵にするのですから…。その上で、そのカット内の動きのポイントとなるところの絵様が、そのカットのレイアウトとして固定されるものなのですから、動きを想定しないでレイアウトを描けると考えるほうが間違いなのです。」

富野「”とりあえずレイアウトを出す”という作業が定着したことで、演出家やアニメーターから、カット全体の芝居を創作させる能力を奪ってしまったという側面もあります。その結果が、一枚絵のようなカットがつづくアニメを創るようになってしまったといっても過言ではないでしょう。」

そして、現場が現状に満足してしまっているので改善は不可能に近い、というような不満に終始しています。TVと映画の現場の違いなのか、スタッフに恵まれていないのか、氏の人徳の問題なのか、理由は分かりませんが、行間から苦労が読み取れます。


純粋な「構図」に対する考え方としては、以下のような記述が。

富野由悠季「一般的に実写のカメラの三脚の高さは「90センチ」に設定されています。その理由は、当たり前の大人の目線の高さで被写体を映してしまうと、あまりにも日常的過ぎるから、どうせ映画を撮るなら、被写体がちょっと格好よく見えるやや低めの高さで撮影した方がいい、ということです。(略)。ぼくは、(アニメでは)アオリ主義がとおせないために、実写はいいなという感覚になってしまうのですが、たまに、アオリのキャラクターを描けるアニメーターと出会えたときは、ニコニコしてしまいます。」(『映像の原則』)

『ブレンパワード』制作時、スタッフに示した「演出チェックの5原則」の一つにも、「カメラ位置はアオリが原則」というものがありました。氏の作品作りのベースとなる考え方であるようです。「アオリが描けるアニメーター」の筆頭として思い浮かぶのは、湖川友謙氏。氏やビィーボーを頼ることで、富野氏は自分の望む絵を獲得して行ったのでしょうね。


そして、好みが真逆の人も。

宮崎駿「「ハイジ」の場合は、キャラクターの日常生活に感情移入させて描いていくものでしょ。だから、アングルを、なるべく日常的な感覚で、自然なものにするということを心がけていたんですね。絵コンテはコンテマンに発注してたんだけど、あがってきた絵コンテは極端なアオリ…つまり、カメラが下のほうにあって、人物がすごい格好になっているのを、(レイアウトの段階で)人間の自然な目の高さまで、カメラをあげてやるとかね。だから、アングルも変えたけれど、カメラの高さを直すということが多かったんです。カメラが下から撮ってると、なんか舞台劇をみてるみたいで、映画にならないんですよ」(『アニメージュ』85年7月号)

宮崎氏は、やはり人間の見た目に近い映像が好みのようです。

33
2004年09月25日 18:46

反鼻
少々自分の意見をまとめてみました。
私はアニメに関しては素人なので、諸氏のご叱責をお待ちしております。


◆1.レイアウトの定義◆

アニメにおけるレイアウトとは、
①物語に沿った演出意図を映像化し、
②動き(演技)とカットの繋がりの整合性を取るものである。


<レンズの導入>

アニメにおけるレンズは方便に過ぎない。
なぜなら、演出家の望む画面効果を得るために、実写で使用されている方法論を導入しているに過ぎないと考えられるからである。
(本来、絵で表現するアニメはレンズにこだわらない演出が可能である)

アニメの演出にレンズを導入した場合の利点は、
①実写ですでに実績のある演出方法であり、安定した画面効果を期待できる(視聴者にも分かりやすい)
②そのため、実写(映画)的な演出を施しやすい(情報の量や質を向上させやすい)
③すでに確立されている表現方法であるため、演出家の頭の中にある映像や演出意図を具現化しやすく、第三者(アニメーターなど)にも伝えやすい(制作現場での共通言語として機能する)
事などである。


◆2.アニメにおける「よいレイアウトマン」とは◆

①物語の流れとテーマを理解し、
②個々のカットの意義を理解し、
③動きと演技を構成できて、
④カット同士の繋がりを理解し、
⑤それらを的確に映像化できる人間。
つまり、自分(の頭の中)で映画を一本丸ごと完成でき、
なおかつ、”良いアニメーター”である人間。

演出意図とは、監督の主観にほかならない。
究極的には、全ての画面を自分自身で描くのが最も良いということになる。
そのため、アニメーションにおける監督作業は、実写映画監督よりもむしろ漫画家に近いものとなる。


◆3.制作体制から見る監督別の傾向◆

宮崎駿氏の製作体制は、アニメーターを自分の”アシスタント”とした漫画の制作体制と見るのが妥当であろうし、大友克洋氏、今敏氏などの「絵の上手い漫画家」が、業界を代表するアニメ監督となっている理由の一端も、この点にあるものと思われる。

この制作体制には、監督の体力的、技術的限界が反映されやすいというデメリットもあり、漫画化方式で映画を作るアニメ監督は定期的に休暇を取らなければならない。
(また、自分自身で考えて表現する必要のないアシスタント的立場からは自発性が生まれにくいため、部下が育ちにくい傾向がある)

監督としての質の違いを制作体制から見るならば、宮崎氏の漫画家方式に対し、高畑・押井両氏はより実写に近い制作体制を取っていると言えるのではないだろうか。

これに対し、富野由悠季氏の方法論は若手(制作スタッフ、役者)の積極的な登用が特徴で、また、本人の弁からも若手育成への関心が高いことが伺える。
その演出方法は作為の強い演劇風であり、舞台劇、とりわけギリシア悲劇的な大仰な演技に分語調のセリフが目立つ。
これらの点から、富野由悠季氏の主な方法論は演劇であり、組織や団体を運営することを念頭に置いた企業的制作体制であると言えるだろう。


<参考>

自分のBBSで恐縮ですが、考え方のご参考までに。
レイアウトとは離れてしまうのですが、考え方の違いを見るのには良いテキストかと思います。

・[171] 「構造と力」(宮崎駿との対話)、及び
http://www3.azaq.net/bin/read.cgi?810/hanpi+40
・[206] 「構造と力」 補足(富野由悠季との対話)
http://www3.azaq.net/bin/read.cgi?810/hanpi+30
(「アニメック」1984年8月号より抜粋。)


◆4.良いレイアウトとは◆

監督によって演出の方法論が違う以上、レイアウトの構築方法も監督や作品によって異なると見るのが妥当であろう。

上記の◆1.レイアウトの定義◆に合わせて言えば、
「②動き(演技)とカットの繋がりの整合性」には一定の法則性があると考えられ、その法則は他作品にも共通する場合が多いが、
「①物語に沿った演出意図の映像化」は監督や作品によって異なる
傾向が強い、と言えるのではないだろうか。

そこで、今までに名前の挙がってきた人物ごとに、その傾向を端的に言い表してみる。

・宮崎駿 「印象(主観)派」(自分の感じている通りに。作画や動きなどの視覚的要素が強い)
・高畑勲 「理性(客観)派」(全てをコントロールしようとする。物語や意味性などの非視覚的要素が強い)
・押井守 「思想派」(映画は自分の意見表明、あるいは論文)
・大友克洋「シニカル派」(対象と距離を取った演出。そのため登場人物への感情移入が難しい)
・今敏  「アイディア派」(テーマよりも、作品ごとのアイディアやギミックを見せる野が目的。やや手塚治虫的)

番外:森やすじ「童画派」(輪郭と部分で構成。平面的。子供の認識に近い)

34
2004年09月25日 21:03

反鼻

試みに各監督をダイアグラムで表現してみた。(左図参照)
(あくまで現時点での個人的意見)
フィクションはファンタジーと言い換えても良い。

縦軸と横軸はこれ以外にもいろいろ考えられるし、
Z軸を加えて三次元テーブルにすることも考えられる。
では、このダイアグラムに従って、望ましいレイアウトの傾向を当てはめてみる。(右図参照)

監督の傾向から、望まれるレイアウトが決定されるというのも、見方としては面白いのではないかと思います。

35
2004年09月26日 13:03

反鼻

あ、富野氏を忘れていました。

富野由悠季「演劇(芸能)派」(作画をコントロールする事に見切りを付け、”演技”のコントロールを強化。セリフ、ポーズなどオーバーアクションの傾向強い。ただし、フリー演出家の経験から、”早く仕上げるための方法論”でもある可能性あり。虫プロ系演出とも言えるかもしれない)

虫プロ系演出という言い方で思いつきましたが、
虫プロ系は富野型演出、出崎型演出、りんたろう型演出とか、
旧東映系映画型演出、現東映系テレビ型演出という
見方もできるかもしれません。
それぞれの演出方式で、レイアウトの方法論にも
変化があるかも。
だとすると、制作コスト(資金、時間、人材など)も
レイアウトに大きな影響を与える要素に数えるべきかもしれません。

りんたろう型は最近ではアニメーターの中澤一登氏が
サムライ・チャンプルーで流用していましたね。

36
2004年10月22日 11:26

反鼻
私は新海誠氏の『ほしのこえ』を友人宅で一度しか観た事がありません。
誤解、誤謬等あるかと思いますので、ご批判を加えながらお読みください。


視覚的要素である絵も、非視覚的要素である物語も、
最終的には”画面”によって視聴者に伝えられます。
レイアウトは、その画面の仕様書であると言えます。


◆1.レイアウトの究極の目的◆

演出≒作品の究極の目的は、「見る人に感動(※1)を与える」、
「見る人の感情をコントロールする」事です。
つまり、作品のエッセンスであるレイアウトの効果の一つは
「感情を表現する」事だと言って良いでしょう。
そのため、画面には、見た目の良し悪しとは別に、
物語に沿った情感が表現されている必要があります。

「上手い絵」と「美しい絵」の違い、と言えば良いでしょうか。

したがって、画面の仕様書であるレイアウトの段階で、
そのシーンで表現すべき情感を盛り込んでおくことが
必要になると考えられます。

(※1)
ここでは「感動」という言葉を良い意味だけではなく、
広く「感情を変化させる」「感情を動揺させる」という
意味で使っています。
たとえば、悲哀感や不安感、恐怖感も「感動」です。


◆2.近年のレイアウトの流れ◆

庵野秀明氏は『新世紀エヴァンゲリオン』やその後の
『彼氏彼女の事情』において、現代的な孤独感や、
思春期の不安定な感情を表現する方法論を確立しました。

その具体的な技法の一つがレイアウトであり、以後
アニメやマンガだけでなく、実写映画や広告においても
模倣され続けています(※2)。

(※2)
これには二つの側面があります。一つは技術面の問題。
もう一つは、TV局やスポンサーがそのような複雑で
現代的な問題を扱った作品に出資しやすくなったという
システム面の問題です。

作画に流行があるように、レイアウトにも流行があるわけです。

故・深作欣二監督の『バトルロワイヤル(原作・映画)』も
『エヴァ』の影響下にあると思われますし、『踊る大走査線』や
現在放映中の『仮面ライダー』シリーズなどのTVドラマにも、
その影響が伺えます。

このような傾向は、映像作品の制作者と視聴者の両方が、
より現代的な表現方法を潜在的に求め続けていたからこその
ものであると、私は見ています。

すなわち、我々は「孤独感」、または「孤独への憧れ」
常に感じているのだとも言えるでしょう。

私の考える庵野氏のレイアウトの特徴は、
・現実を強く想起させる「既視感」、
・誇張としての「作為性」と「イラスト性」、
・「孤独感(寂寥感)の強調」
であり、また、実写方面では岩井俊二氏などが
同系統の作家性を持っていると、私は感じています。

このような演出方法は、主に高校などの映研や自主制作アニメで、
クラッシック音楽の使用方法を含め、古くから使用されている
方法論であり、庵野氏はそれを「整理して見せた」のだとも
言えるかも知れません。


◆3.新海誠氏のレイアウト◆

さて、私が『ほしのこえ』を観た感想では、新海氏は
『エヴァ』の影響を強く受けているように思えます。
(友人は物語を含め『トップをねらえ!』の影響を指摘していました)

孤独感を強調した新海氏のレイアウトは、おそらく、
庵野氏の系統に属するものだと私は考えています。

孤独感を基調としたレイアウトは、「離れ離れになる二人。
しかし、離れる事で二人の心はより近づいてゆく。彼らの
孤独感はやがて人類という種そのものに重ね合わされてゆく」
というストーリーとも合致しています。

ただ、一視聴者としてみたとき、カットの繋がりが弱く、
イメージカットの連続という印象も受けました、
もっとも、これは新海氏が元々ゲームの背景出身であり、
『ほしのこえ』が映像作家としてのデビュー作ですので、
批評はしても批判すべきものではないと考えます。

37
2004年10月22日 11:28

反鼻

◆4.今後のレイアウトの展開◆

以上を踏まえ、以前私の作成したダイアグラムに新海氏を
加えると同時に、他の要素も加えてみました(★左図参照)。


(1)説明

最近、ビデオで押井守氏の『イノセンス』を見たのですが、
CGを「現実の再構築」ではなく、「現実の解体」に
使用している点が目を引きました。実に懐疑的です。
内容的には、むしろ『トワイライトQ』を思い出しました。

山賀博之氏は実写映画に近い感覚で、高畑勲氏の系統に属する
のではないかと考えています。
個人的に、いわゆる「名作物」の監督が向いているのではないかと
思っています。

磯光男氏の作画は「突き詰める作画」であり、あえて似た存在
を挙げるなら、イラストレイターの山田章博氏ではないでしょうか。
私は氏の担当した『ラーゼフォン』第15楽章を見て、
イワン・ビリービンの絵本を思い出しました。
『マインドゲーム』は見ておりませんが、湯浅政明氏も
この系統に属しているのかもしれません。
このような絵画性の高い作品は昔から存在していましたが、
商業作品とは一線を画してきました。

後述しますが、今後は絵画性と商業性を両立させる作品が生まれる
可能性も(少ないながら)存在しており、おおいに期待したいところです。

38
2004年10月22日 11:33

反鼻

(2)読解

さらに、こうして並べてみると、
従来のレイアウトの流れ(①⇔④)から、
新しいレイアウトの流れ(②⇔③)への
移行が進んでいる事が分かります(★右図参照)。

この移行は、当然CGの導入とも無関係ではないでしょうが、
主に幼い頃からマンガやアニメに慣れ親しんだ世代が育ち、
画力の向上と、実写的感覚とアニメ・マンガ的手法を自然に
(違和感無く)融合させることが可能になったためであると
思われます。

また、もう一つの傾向として、
現在は実写的感覚の強い②④(ノンフィクション系)が有力であり、
むしろ従来の主流であった①が少数派になり、ベテランの独壇場と
なりつつあるように見えます。

これは、本来実写方面に進むはずの人材がアニメ業界に参入していたり、
画力などの技術が向上してきた事の他に、作品世界全体を作れる人材が
減少しているということも表しています。

某有名アニメーター氏の言葉ですが、「みなさん今風の絵は巧い。
けどキャラ表で描くとそうでもなかったりするんです。技術力は
自分のその年齢の頃よりあるはずなんですよ。なぜでしょうか。」
という意見も聞こえてきます。

このような状況では、個々の専門的才能をいかに組み合わせるかという、
いわば人材のアンサンブルやコラボレーションが重要になり、勢い、
現在のTVアニメのような人海戦術となるのもやむを得ない事かと思います。

個人的に、今後最も発展の可能性があると思われるのが③です。
今まで、商業アニメ全盛の日本アニメでは制作しにくかった
これらの作品も、近年『アニマトリックス』や今石洋之氏の
『DEAD LEAVES』、湯浅政明氏の『マインドゲーム』など、
作家性を前面に押し出した作品が続き、制作体制に若干の変化
生まれているようです。

これらの流れを総合し、たとえば、十分な時間と資金を用意して、
ジブリがプロデュースを担当、制作4℃で磯光男氏にNHKの10分の
帯アニメを制作させるといった、スタジオ同士のコラボレーションと
個人への投資が実現してゆけば、個人的にはより面白いものが見れる
のではないかと期待しているのですが、現在の過密スケジュールと
自転車操業ではそれも難しいでしょう。

(もっとも、ジブリは実質上日本テレビの子会社だそうなので、
他局に作品を提供する事はありえず、現在のところ、これは夢物語に
過ぎないのですが)


時間が無くてまとめきれていませんが、新海氏のレイアウトを考察する事は、
今後のアニメにおける全体の傾向を考える事にもつながると、私は考えています。

最後になりますが、海外のアニメファンが『ほしのこえ』を
どのように受け取っているかの一端が、こちらに書かれています。
ご参考までに。
http://www4.ocn.ne.jp/~tmf00a/05132004.htm

39
2004年10月23日 03:32

平川哲生
>反鼻さん

『エヴァンゲリオン』と『ほしのこえ』の関係については、「物語の孤独感と現代性」の話としては楽しめそうですが、どうもレイアウトについての話としてはズレているような印象を受けました。

たとえば両作品に通じる「孤独感を強調したレイアウト」の画像などをアップして検証しても、孤独感というキーワードを立証するために都合のいい場面を寄せ集めてしまいそうです。このキーワードから漏れる場面は、それぞれの作品には存在しないことになってしまうかもしれません。たとえば『エヴァンゲリオン』なら、「瞬間、心、重ねて」の共同作業の場面が見逃されたりして。

つまり、こういう論じ方は、レイアウトではなく、物語の傾向について論じることになるのではないか、とわたしは考えます。
あと、『バトルロワイヤル(原作・映画)』が 『エヴァンゲリオン』のレイアウトの影響下にあるとする根拠はなんでしょう? ここは具体的に、映画のどの場面のレイアウトなのか訊いてみたいです。原作は小説なのでレイアウトなんて関係ないでしょうし。物語が時代背景からの影響を受けている、というならわかりますが…。

このあたり、どうお考えでしょうか。
お聞かせいただけたら幸いです。

40
2004年10月23日 03:41

平川哲生
このコミュの流れとはちがいそうなんですが、あえて書きます。
話題づくりになればいいんですが…

わたしが友人とレイアウトについて話すとき、「表象」、「配置」、「現実性」を話題にします。そうすると話しやすいので。

「表象」は辞書どおりの意味で、抽象的な物事を連想させるために、それに代わって用いる具体的なもの、という意味です。
実写よりもアニメの方が表象に使いやすいものはなんだろう? なんて考えてみたりします。たとえば、坂道、階段、分かれ道などの風景は、ゼロから描けるアニメーションの方が、そういう場所を探す手間もないし、効果的に使いやすいんじゃないだろうか、なんて話になったりします。

「配置」は、そのままの意味です。
演出家やジャンルによって配置に差があるもので、たとえば人物のアップでも、おでこからフレームに収める場合と、頭のてっぺんから収める場合があったりします。ロボットものと一口に言っても、『ガンダム』と大張正巳さんの作品じゃ、だいぶちがいます。そのちがいを話したりします。
ほかにも、A君がB君のことをいじめるシーンの場合、キャラ表ではB君の方が背が高いけれど、A君の方が大きいような錯覚を生む配置にして、立場のちがいを表現できないか、なんて話にもなります。

「現実性」は、どの程度のリアリティが求められてるか、というような意味です。
たとえば『かいけつゾロリ』は漫画チックな絵柄なので、パースがおかしくても目立ちません。今敏さんの作品じゃできないけど、『かいけつゾロリ』なら通用するレイアウト、というものが存在します。アニメーションの絵ならではの特性を生かしたレイアウトって、どういうものだろう? なんて話になったりします。映画『エースをねらえ!』の、宗像、お蝶、岡が順番にスライドインする場面は、パースに縛られていては発想できないよね、なんて話したり。

これら「表象」、「配置」、「現実性」は、便宜的に分けているものです。「配置」の例に挙げた立場のちがいを表現するところは「表象」と言うこともできますし、「現実性」は残りふたつに大きく関わると思います。

アニメーションにおけるレイアウトの役目は、この三つをもとにすると語りやすいかな、と思います。

わたしはアニメーションを語るとき、あるいは演出家の作家性を考えるときに、レイアウトではなく、画面になにが映るかで判断する「主題論(テマティック)」を使ってます。レイアウトをもっと大きく解釈したもの、と考えることもできそうです。
興味のある方は主題論(テマティック)を使った「細田守論」があるので参考までに。
http://bokuen.cool.ne.jp/log/digi/note04.html

41
2004年10月24日 00:45

反鼻
平川さんへ。

>つまり、こういう論じ方は、レイアウトではなく、物語の傾向について論じることになるのではないか、とわたしは考えます。

はい、まったくご指摘の通りです。
たしかに、よりレイアウト寄りの内容にまとめるべきなのですが、
私の力不足でそこまでには至りませんでした。

私のレイアウト(および他の作品を構成する要素)へのアプローチは、
レス[33]の◆4.良いレイアウトとは◆でも書きましたが、
>「①物語に沿った演出意図の映像化」は監督や作品によって異なる傾向が強い
という自分の意見に基づくものです。

要約すれば、「まず内容ありき」、
「個々の作品の内容が、レイアウトの内容を決定する」
というものですので、作品そのものの内容や傾向に触れざるを得ず、
このような書き方になりました。
つまり、私にはレイアウト単体では語れないのです。


また、『バトルロワイヤル(原作・映画)』~の文章に関しては、
私の記述不足です。
この文章はレイアウトについてだけのものではなく、物語その他の
要素を含め、『エヴァ』が影響を与えていることを言ったものです。
「レイアウトの話から外れますが、」と文章を挿入しておくだけでも、
誤解は防げたはずですね。失礼いたしました。

ただ、今ぱっと思い出した限りでは、ビートたけしの登場シーン
(ヒロインの夢?のシーンやBR体操を踊るシーンなど)には
『エヴァ』の匂いがする気もするのですが・・・。

また、
>孤独感というキーワードを立証するために都合のいい場面を寄せ集めて~
>~「瞬間、心、重ねて」の共同作業の場面が見逃されたりして。
という部分についてですが、私の前回の文章は、『エヴァ』のある特定の
レイアウト作法が流行してゆく過程、すなわち、模倣されてゆく過程を
説明したものですので、『エヴァ』全体の評価は必要ないものと考えました。

なぜ「孤独感を強調したレイアウト」が流行したのかを、私は
「制作者と視聴者の両方が、より現代的な表現方法を潜在的に
求め続けていたから」だと説明しました。
皆が望んでいたのは「現代的な孤独感を表現できる方法論」だった、ということです。

したがって、この場合は『エヴァ』の他の要素は関係なく、
皆が望んだ「孤独感の表現」だけが特に流行した、つまり、
まさに「都合のいい場面」だけが模倣されたわけですから、
その場面が元の作品の中で持つ意義や、元の作品の内容は
関係ないということになります。

ちなみに、既にお気づきかもしれませんが、この
皆が潜在的に求めていながら具体化できないもの」というのは、
ヒット作の普遍的な定義の一つ(具体化できればヒットする)であり、
私のオリジナルの考えではありません。

上記の平川さんのお話で言えば、作品内容に立脚する私の主張は
「主題論(テマティック)」に近いものではないかと思えます。
ただ、私の関心は「何が描かれているか」ではなく、
「なぜ描かれているか」に向いていますので、
違うのかもしれないのですが。

取り急ぎ、お返事させていただきました。
いかがでしょうか。

42
2004年10月24日 05:55

平川哲生
>反鼻さん

お返事ありがとうございます。胸のつかえが取れました。

「現代的な孤独感を表現できる方法論」は、レイアウトに限定するよりも、物語、キャラクター、世界観などのもろもろの設定、音響、色指定なども含めて考えていったほうがいいように思いました。これらもとても重要な方法論ですし。
そういう意味では、この[レイアウト至上主義]のコミュに向いてない話題かもしれませんね。

>『バトルロワイヤル(原作・映画)』
(途中の引用を略します)
>ただ、今ぱっと思い出した限りでは、ビートたけしの登場シーン
>(ヒロインの夢?のシーンやBR体操を踊るシーンなど)には
>『エヴァ』の匂いがする気もするのですが・・・。

都合のいい場面の寄せ集め、ではないでしょうか。
ふたつの作品がまったく似てない方が珍しいわけで、あまり有意義な話じゃないように感じます。

>上記の平川さんのお話で言えば、作品内容に立脚する私の主張は
>「主題論(テマティック)」に近いものではないかと思えます。
>ただ、私の関心は「何が描かれているか」ではなく、
>「なぜ描かれているか」に向いていますので、
>違うのかもしれないのですが。

「主題論(テマティック)」の大きな特徴は、作品中に実際に見えるもの(聴こえるもの)をもとに考えるところです。
孤独感とか、現代性とか、作者の思想やインタビューの発言など、そういう見えないものは無視します。なぜなら孤独感などは、いっけん作品やレイアウト、作家性について分析しているようですが、実際は書き手の勝手な思いこみにすぎない場合が多いからです。書き手がどういう感性でアニメーションを見ているか、そんなことがわかっても、建設的な論議にはなりませんよね。
加えて、くり返しになりますが、『エヴァンゲリオン』の「瞬間、心、重ねて」をないことにしないと、現代性や孤独感は語れないことになってしまいます。
仮に庵野秀明さんの演出(レイアウト)の特徴を、「孤独感の強調」とするなら、『ナディア』は? 『トップをねらえ!』は? 『まほろまてぃっく』のOP絵コンテは? 『エヴァンゲリオン』のごく一部でしか適応しなそうな、この「孤独感の強調」は、ほんとうに特徴と言えるのでしょうか。
これからつくられるだろう、庵野さんの新作にたいしても、開かれた考え方ではありません。

以上のような理由で、演出家の特徴を示したダイアグラムも、なんら説得力を持たないとわたしは思います。反鼻さんがどういうセンスでアニメーションを見ているかはわかりますが…。

アニメーションのレイアウトについて語るのは、もうほんとにめちゃめちゃ大変なことなので、書き手の感性を押しつけあったり、抽象的な言葉のゲームをするのは、なるべく避けたいと思ってます。建設的な意見の交換ができたらうれしいです。

こういう言葉づかいに慣れてないもので、不快にさせる表現があったらすいません。けんか腰の論争をふっかけようなんて意思はないので、汲んでいただけたらありがたいです。

43
2004年10月24日 06:20

>反鼻さん

新海氏の「カットの繋がりの弱さ」は、異質なリアリティが混在する作品の「デコボコのコントロール」が、庵野氏ほど上手く出来ていないためではないでしょうか。
庵野・新海作品に共通して感じるのは、作品内のリアリティの軸が2つ(あるいはそれ以上)あって、全体と細部が統一されていないということです。
遠景は現実離れしたイメージなのに、細部に寄ると既視感のある風景(=写真のトレス)に変わってしまう。その異常さが似ています。

写真を利用してリアリティを補強した作品として、例えば、『海がきこえる』だったら、遠景近景に関わらず終始、現実的な風景が続きますし、今敏・押井守作品も、作品ごとに統一されたリアリティの上に成り立っています。リアルと非リアルな描写が同居するのは、ギャグの世界でしかありえない。それを、(冷めた眼で見るとコメディと紙一重の「特撮」を経て)、庵野氏が上手くシリアスな表現に昇華したのかなと思います。

あと、風景に何かを語らせるときに、海岸・マンション・都市のような「場所」ではなく、看板・郵便受け・信号機のような「細部」を用いるのも2人に共通しています。それ以前は、「細部」は「状況」を説明するものでしかなかったのではないでしょうか。何か(孤独感?)の表現として、そのような構図が有効であることを示したという点で、これはやはりレイアウトに属する話題ではないかと思います。

44
2004年10月24日 20:18

反鼻
平川さんへ。

なるほど! いろいろ納得しました。
ご指摘の通り、私の文章は分析論ではありません。
私の立場は視聴者のものですので、「作品は全ての人の感想をコントロール
することはできない」「いわば、見る人の数だけ異なる作品が存在する」と
考えており、まず自分の感覚を基準に書き込んでおります。
作品の評価は見る人が決める、自分が見たときに初めて作品は完成するという
ある種傲慢な見方ですが、私はそうした多様性が作品(表現)の持つ面白さの
一つだと考えています。

たしかにこれは、一貫して作り手の立場に立つ平川さんの意見とは
相容れないものだと思います。
批判ではなく、作り手はコントロールする側の立場ですから。
私がこのコミュニティに書き込んだのは、もっと様々な角度から話題を
発展させられないか、という思いからでした。
したがって、この点では、私と平川さんの意見は平行線をたどることになると
思いますので、自分の意見を押し付けようとする意図は私にはありませんよ、
とだけ書かせていただきます。


>都合のいい場面の寄せ集め、ではないでしょうか。
>ふたつの作品がまったく似てない方が珍しいわけで、あまり有意義な話じゃないように感じます。
はい、その通りだと思います。
これは、無理に似たレイアウトを探した結果です。


>仮に庵野秀明さんの演出(レイアウト)の特徴を、「孤独感の強調」とするなら~
これは、レイアウトの話とは外れますので無視してくださって結構です。
この点については少々誤解があるようですので、説明させていただきます。

というのは、私は庵野秀明氏全体の特徴ではなく、庵野氏が『エヴァ』
(および『カレカノ』)で示した方法論についてしか書いていないからです。
同時に、これで庵野氏その他の演出家の評価(新作についても)を
決め付けようとする意図もないのです。
(あくまで現時点での個人的意見)と書いておいたのはそのためです。

また申し訳ないのですが、「瞬間、心、重ねて」に関しては、共同作業を
したから孤独を表現していない(否定している)、とは言えないと
私は考えています。
たとえ近くにいてコミュニケーションが取れたとしても、より近づきたいと
願っていても、 心の壁を取り除く事が出来ず、かえってその孤独感を深めると
いう状況があり、『エヴァ』のテーマの一つはまさにそのようなものだったと
記憶しています。
私は、「瞬間、心、重ねて」においても庵野氏の態度は一貫していると考えています。


>「主題論(テマティック)」の大きな特徴は~作者の思想やインタビューの発言など、そういう見えないものは無視します。

なるほど。テマティックは画面に現れるものだけを対象にするわけですね。
たしかに、これは作者の意図に注目する私の立場とは異なります。

そこで教えていただきたいのですが、テマティックとは、
「作家へのアプローチ」ではなく、 「作家の作った作品世界へのアプローチ」だと
考えて良いのでしょうか?
たとえば、細田作品の食べ物で言えば、
「なぜ細田守は繰り返し食べ物を登場させるのか」ではなく、
「細田作品では、食べ物はどういう意味を持つか」がテマティスムな見方だと
考えて良いのでしょうか。

テマティックが「画面に何を描くか」を決めるものだとすれば、
平川さんの挙げられた「表象」「配置」「現実性」の根底に関わるものですよね。
では、アニメーションの現場では、実際にそのテマティックに基づいて
(演出家が意識しているかどうかは別にして)「表象」「配置」「現実性」が決められ、
それがレイアウトに反映されているのでしょうか。
それとも、テマティックは既存の作品(レイアウト)を分析、批評する手段でしかない
のでしょうか。(これは、平川さんの個人的な意見でも結構です)

ネットで検索しただけではあまり良く分かりませんでしたので、
平川さんが挙げられている『監督 小津安二郎』も購入しようと思っています。
レイアウトに関わる内容と思い、以上の点についてお教えいただければ幸いです。



bonoさんへ。

>庵野・新海作品に共通して感じるのは、作品内のリアリティの軸が2つ(あるいはそれ以上)あって、全体と細部が統一されていないということです。

ああ、この言い方はしっくりきますね。
たとえば、「巨大ロボットと電信柱」とか。
『ガンダム』の第1話のレイアウトもこの意見に当てはまるでしょうか。

カットの繋がりという話題から離れてしまいますが、たとえば
『カレカノ』の信号機が連続するカットは、現実的な記号でありながら、
現実には存在しない非現実的な光景ですよね。
その他、『エヴァ』の第一話でシンジが綾波の幻覚?を見るカット
のレイアウトも、この意見にあてはまるかと思います。


>看板・郵便受け・信号機のような「細部」を用いる
おそらく、かつては看板を描くだけでカットが成立する(意味のある
画面を作れる)とは思われにくかったかったのではないでしょうか。
これは、映画のモンタージュ手法の発展形と見るべきなのかも。

こういう手法は、従来の作品が全てを作り手側で完全処理して
「この映像はこう読み取ってください」と提示していたのに比べると、
観客が自由に想像する事を許すという、より「観客を信じる」
タイプの手法であると言えるでしょう。
これは、モナ・リザ以降の西洋絵画の流れとも、そして、
日本画の精神とも符合します。

ということは、おそらくこれは観客の成熟度が上がると現れる現象で、
アニメファンの鑑賞眼のレベルが上がったためであり、かつ、日本的な
感覚に根ざした手法だと見ても良いかもしれませんね。

『ほしのこえ』のレイアウトは、『エヴァ』等のレイアウトが新海氏の
嗜好に合致したというだけではなく、上記のような時代性や観客(≒市場)
の成熟度、 少人数で制作可能なコストパフォーマンスの良さなどが
加味された上で生まれたものであろうと想像します。

45
2004年10月25日 04:29

>反鼻さん

>『ガンダム』の第1話のレイアウトもこの意見に当てはまるでしょうか。

日常と非日常という形で受け取られたのだとしたら、言葉足らずでした。もう少し説明してみます。

例えば、仮に、『ガンダム』に電信柱が登場した場合を想像してみます。それは、現代風の「電柱」そのままであるはずも無く、スペースコロニーの風景に馴染む(SF漫画的な)デザインに変更され、(漫画的な)ロボットやキャラクターと同じ存在感で描かれたのではないでしょうか。

一方の『エヴァ』は、漫画的なデザインのロボットやキャラクターと、現実的なデザインの電信柱が、同じ世界観に混在しています。このため、一つの作品内であるにも関わらず、カメラの捉える対象ごとに、「漫画・イラスト的なレイアウト」と、「現実的なレイアウト」を行き来することができる。ギャグアニメでは、「場面ごとに人物の等身が変化する」という表現が見られますが、それと同様のことを「レイアウトにおいて」実践したのではないかと考えています。『エヴァ』では、「統一感のある映像の流れ」を作ることよりも、「カットごとの起伏」をそのまま残すことが選択され、『カレカノ』で、その表現は更に先鋭化しました。意思の統一に失敗して、結果的にデコボコなフィルムになってしまったのではなく、意図的にそうしたと。

『ガンダム』では、カメラの捉える対象が変化しても「A:ロボット単体」=「B:ロボットと比較物」=「C:比較物」という様に、全てが同質のリアリティを持ち、同じ現実の中を移動するだけでした。
『エヴァ』の場合、カットの変化に対応して、「A」<「B」<「C」という形で、現実感が増していきます。これは単に「物体そのものが現実的であるから」というだけでなく、Aには適応できなかった(もしくは、しなかった)現実的な描き方を、Cには適応できるようになり、実際それが行われていたからではないかと考えています。

46
2004年10月25日 05:49

今石洋之「写真を見ながら、背景を描くんです。それが難しかったら参考にする写真をパソコンでセルの大きさに合わせて出力するよ、と(庵野監督に)言われたんです。プリントされたものをトレースすれば悩みませんから。」
(『GAZO』VOL.1での『彼氏彼女の事情』に関する発言)

「フィルムの統一感」を旨としたレイアウト観からすれば、写真をトレスした背景と、少女漫画的な絵の背景が混在することは、異常だと思うのですが、庵野氏はこういう手段もありうることを示した。「作品内のリアリティの軸が2つ(あるいはそれ以上)ある」と言った意味は、このようなことに関してです。

47
2004年10月25日 07:57

平川哲生
>反鼻さん

>また申し訳ないのですが、「瞬間、心、重ねて」に関しては、共同作業を
>したから孤独を表現していない(否定している)、とは言えないと
>私は考えています。

ああ、なるほど。気づきませんでした。
『エヴァンゲリオン』では一貫して演出しているみたいですね。

>そこで教えていただきたいのですが、テマティックとは、
>「作家へのアプローチ」ではなく、 「作家の作った作品世界へのアプローチ」だと
>考えて良いのでしょうか?

作家の思想や精神、作者が作品に込めた意図を探ろうとする場合でも、主題論(テマティック)は大いに役立つと思います。ちょっとあんまりな例ですけども、宮崎駿さんの「少女」という主題から、ロリコン精神を読み取ったり…。
"作者の意図に注目する"反鼻さんにとって『監督 小津安二郎』は刺激的な読みものになるんじゃないかなぁと、勝手に想像してます。読み終わったあとの感想をぜひ聞いてみたいです。

>テマティックは既存の作品(レイアウト)を分析、批評する手段でしかないのでしょうか。

主題論(テマティック)は、作品を分析・批評する手段であると同時に、作品をつくるときの演出手段にも応用できるのが面白いところだと思います。わたしは作り手として、演出のお勉強みたいに考えてます。

アニメーション制作の現場で、主題論(テマティック)についてなんらかの知識がある人は、私の知るかぎり少ないです。しかし優れた演出家は、知らず知らずのうちに、画面に豊かな主題たちの体系をつくってしまうものだと考えています。

48
2004年10月25日 08:28

平川哲生
>bonoさん

「作品内のリアリティの軸が2つ(あるいはそれ以上)ある」

目からうろこ、という感じです。
ひじょうに鋭い視点だと思いました。

レイアウトにはリアリティの幅があるのにキャラクターには幅がない場合とか、逆に、キャラクターは漫画絵とリアル絵の幅があるのに、レイアウトには幅がない場合など、いろいろ考察できそうです。

実写ではCGを使ったり、鈴木清順ばりの書き割りを立てたりしなければ、背景(レイアウト)にリアリティの幅が生めない。それににくらべて、アニメーションでは比較的簡単に実践できる手法ですよね。

もっと実験を重ねて、意識的に使えるようになれば、アニメ表現の可能性が広がるかもしれません。いい例じゃないですが、『天才バカボン』のような漫画チックなレイアウトに、あえて『人狼』みたいなキャラクターが生活しているような作品で、内容はシュールなギャグアニメにする、とか。
そんな場面を『妄想代理人』で見たような気もしますけれど…。

49
2004年10月25日 08:42

反鼻
ああ、なるほど。失礼いたしました。
今、上のbonoさんの書き込みと合わせて読んで納得いたしました。

私はリアリティという言葉を誤解して、「現実に存在するもの=リアリティ」と、「現実には存在しないもの=リアリティの無いもの」をレイアウト内に混在すると本来ギャグになるはずだが、庵野氏はその二つを混在させてもギャグにならないシリアスな表現に昇華した、と読んでしまったのですね。

bonoさんの主張はさらに一歩踏み込んで、「リアリティA」と「リアリティB」をレイアウト内に混在させつつ、AとBをわざと等質にはせずに、場合によって現実感の度合いを描き分ける事で「(異質なリアリティの)デコボコのコントロール」を実現した、ということなのですね。

たしかに、絵であるアニメーションに向いた表現方法ですよね。

50
2004年10月26日 02:12

平川哲生
アニメのレイアウトを語るさい、テレビというメディアの特性は避けて通れないと思うので、書いてみます。

■テレビというメディアの特性と、レイアウトについてのあれこれ

テレビの視聴者は、電話がかかってきたり、お客さんがやってきたり、トイレに行ったり、などなど、集中して画面をじっと見つめられる環境にいない。アイロンをかけながら、お菓子を食べながら見ている人もいるかもしれない。
映画を見るときのように、視聴者を暗闇に閉じこめたりはできないので、必然的にテレビは映画とはちがう演出方法を選ばなければならない。

これがテレビ作品をつくる、すべての演出家のスタート地点だと思います。
テレビの特性を考えるために、便宜的に、演出方法を三つに分けます。

1. 画面を見ていなくても伝わる台詞などの「言葉」。
2. 1クール13話で4時間半ほどの長尺を活かしたストーリーテリング、「物語」。
3. 情感などの説明をこめたレイアウト、「画面」。

テレビ作品で重視されるのは、言うまでもなく1.「言葉」と2.「物語」です。3.「画面」は、テレビでは十全に視聴者に伝わりにくい表現と言えます。
テレビ作品をつくる演出家は、この「言葉」「物語」「画面」の三点とどう向き合っているかを、いやおうなく計測される運命にあります。

よくテレビアニメの評価で、レイアウトがしょぼい、手抜きだ、なんて言われますけども、それは演出家がテレビの特性と真剣に向き合った結果、「言葉」と「物語」に重きを置いた結果である、とも言えるでしょう。

逆に、映画を見るときのような集中力で作品に接してくれる視聴者をターゲットにして、「言葉」による表現に頼らず、「画面」による表現で勝負する演出方法もあります。まさにレイアウト至上主義と呼ぶにふさわしい作品ですね。

テレビというメディアの特性。
この視点で、細田守さんの演出した『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』の40話と49話のレイアウトを見比べてみると、面白いかもしれません。わたしの個人的な意見だと、出崎統さんの『おにいさまへ…』は、「言葉」「物語」「画面」のおそるべきバランス感覚に到達した傑作だと思います。



なんだか、[レイアウトを巡る言説]というか、わたしの意見ばかり書いてますね。
職業はアニメーターなので、製作者サイドの発言になるかもしれませんけども…。

51
2004年10月26日 02:57

>平川さん
>『天才バカボン』のような漫画チックなレイアウトに、あえて『人狼』みたいなキャラクター

これと正反対の組み合わせ(漫画チックなキャラクターに、あえてリアルなレイアウト)で成功している例が、細田作品だと思います。

>反鼻さん

はい、それで間違いありません。
友人などにも良く指摘されますが、どうにも説明が下手で、申し訳ないです。

52
2004年10月26日 04:30



>リアリティの軸

宮崎・細田・庵野作品の比較図を作ってみました。映像の流れを単純化して、リアリティの統一感のニュアンスを示したものです。庵野氏のレイアウトを考える際の前提として、必要だと考えました。
(図では、背景以外の絵(人物など)をひっくるめて「対象」としました。)


<宮崎作品>
画面に現れるものは全て、「リアリティA」で統一されています。


<細田作品>
「リアリティX」に基づく「対象」と、「リアリティY」に基づく「背景」の二層構造。時間軸に沿った、カット間のリアリティは均一。劇中で突然キャラクターの等身が変わったり、背景の質感が変化することは(…イメージシーンを除けば)ありません。
細田氏の「超細密なレイアウト」は、本来、(押井守・今敏作品のように)リアルな等身の人物とセットで描かれるものだと思います。従来であれば、漫画的なキャラクターデザインを選択した段階で、それに見合った漫画的な背景が選ばれた筈。ですが、細田作品では、背景と人物のズレを許容して、作品が構築されています。


<庵野作品>
カット毎に組分けできる分節構造。『カレカノ』で例えれば、「リアリティa」を「ペン描きの少女漫画タッチ」、「b」を「アニメ調」、「c」を「写実的」、「d」を「写真そのもの(スキャン)」等など…(ここでは分かり易く「アニメ調」等としますが、実際にはその中にも更に幅があると思います)。
前述の『エヴァ』で例えれば、「リアリティa」を「ロボット単体」、「b」を「ロボットと比較物」、「c」を「比較物単体」、等など…がそれぞれ描かれたカットだと考えてください。
カット単体を眺めれば、宮崎作品と同じく、対象と背景の間のリアリティは均一です。しかし、時間軸に沿って眺めた場合、カット間のリアリティは不均一。結果として、カットの連続性が希薄に感じられる場合もあります。庵野作品も、(細田作品とは別の意味で)視覚的なリアリティの断絶を許容しています。


上記のように考えたときに、庵野作品のレイアウトを語ることの難しさを感じるのですが…。
宮崎作品・細田作品は、構造自体は異なるものの、作品内に統一されたレイアウトの根拠(「リアリティA」「リアリティY」)があるという点では同じです。適当に抜き出したカットから共通点を見つけて、それを全体に敷衍して考えることもできると思います。

一方、庵野作品の場合、レイアウトの根拠となるリアリティの基準が統一されておらず、理屈の上ではカットの数だけ存在しうる(<ライブ感覚?)。作品を成立させる大枠の基準があるとは思いますが、それにたどり着くためには、スタンダードな作品とは別のアプローチが必要だと思います。うっかりすると「リアリティa」だけに注目してしまったり、「b」だけに注目してしまったり、「a」と「b」だけの共通点に縛られて泥沼にはまったり、というようなことが起こるのではないかと思いました。

53
2004年10月27日 07:20



折角なので、『トップをねらえ!』からも、実例を紹介してみます。画像は、主人公ノリコの部屋のポスターが映り込む場面です。

<1枚目・2枚目>
人物を客観的に捉えた場合、そこに現れるポスターは、アニメです。

<3枚目>
ノリコの主観から眺めた場合、そこに現れるポスターは、実写です。この実写のポスターが問題で、これでは作品世界の中に、2種類の人類が存在すると受け取られてもおかしくない。本来であれば、このポスターの人物は、作品中の登場人物と同程度のリアリティにデフォルメされていなければ変です。これが庵野作品に一貫する特徴です。


それと、反鼻さんの
>現実的な記号でありながら、 現実には存在しない非現実的な光景ですよね。

というご指摘で気付いたのですが、客観よりも主観の方が現実的な絵である、という部分も面白いですよね。昔ながらの「実景(客観)」と「お花畑的な心象風景(主観)」という関係とは逆です。これも庵野・新海作品の特徴ではないかと思います。

54
2004年10月28日 11:57

反鼻
平川さんへ。

お返事ありがとうございます。テマティックに対する疑問の一つが解けました。
最初にこの言葉を聞いたときには、作者と作品をわざと切り離して考える考察法なのかと思ったのですが、むしろ、その両者の繋がりを考察するものなのですね。

私は、一人の人間が監督をする限り、その作品には自然に一貫したテーマが浮かび上がるし、同時にそこには、演出家や作品ごとにある一定の演出法則が存在すると感じています。
そのような観点から見ると、
>優れた演出家は、知らず知らずのうちに、画面に豊かな主題たちの体系をつくってしまうものだ
という意見は、非常に納得できます。
それを意識的に説明するための概念がテマティックなのですね。

たしかにこれは、今まで演出や鑑賞の際に各自が感じていながら言葉化(≒意識化)できなかった感覚を説明できる「共通言語」として、意義深いものであると感じます。

レイアウトとの関わりで言えば、上でbonoさんが挙げられている富野由悠季氏と宮崎駿氏のレイアウトの好みについても、下から見上げることでより劇的な画面を作ろうとする富野氏と、人間の自然な視点から日常感を出すことを重視する宮崎氏は、異なるテマティスムによってレイアウトを決めている、と言えそうですね。

また、上の平川さんの「■テレビというメディアの特性と、レイアウトについてのあれこれ」を読むと、私は反射的に富野由悠季氏を想起します。「言葉」と「物語」で視聴者を引っ張り、TVシリーズではコントロールの難しい「画面」の質的向上にある程度見切りをつけ、自らの演出原則に忠実に「絵に頼らない演出」を施す態度は、まさに平川さんの言われるテレビ型演出の典型と思われます。

テレビアニメの制作コスト(金、時間、人材など)などの制約の厳しさの他に、「言葉」「物語」「画面」の伝達形式の違いも、テレビアニメの多種多様な表現を生む原動力になっているのでしょうね。

また、同時に思い出したのが大塚康生著『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店 ¥1900)の「6章 ルパン三世 コンテの重要性」です。
レイアウトの前段階である絵コンテの話ではありますが、旧ルパンのワンシーンを題材に、テレビアニメの演出家に同じシーンを絵コンテに起こしてもらい、実際に宮崎駿氏の絵コンテと比較して、一見してその画面の違いが分かる内容になっています。レイアウトの内容によって、どのように表現が変化するのかが素人の目で見てもよく分かり、格好の参考例だと思います。

映画、テレビの両方に参加した経験から、大塚氏の言われる「通常のテレビアニメの絵コンテは緻密でないためにアニメーターの負担が増えるが、代わりにアニメーター独自の表現をできる余地があり、結果的にキャラも似る。宮崎氏の緻密なコンテはそのままレイアウトに使えたり演技を考える必要がないのでアニメーターの負担は減るが、キャラなどは全て宮崎風になり、表現内容が絵コンテにひきずられることになる」などの比較も興味深いものです。

55
2005年06月01日 22:16

富野氏の著書『だから僕は…』の、作品歴に関するメモに面白い一文がありました。

「『ふしぎなメルモ』(略)コンテ、演出を4本やった。手塚先生の企業家的発想から、いかに安くアニメを作るかという一手段として、レイアウト用紙にじかにコンテをきるという実験をやらされた。大きな用紙にレイアウトを想定したコンテを描くのでは、ストーリー全体の流れを読みきれないのだ。最後の1本はコンテ用紙を使ったはずだ。」

企業家的であり、また漫画家的発想という印象も受けますが、工程を減らすと共に、偶然にも「演出がレイアウトを支配する」というその後の流れを先取りしていて、面白いなと思いました。どう考えても、これは不便だと思いますけど(笑)。
メルモが71年、ハイジが74年。いろんな試行錯誤の上に、今のシステムがあるのですね。

56
2005年10月19日 19:59



1年も前の話題で恐縮ですが、10~13番辺りの対話で、押井守監督以前に写真を作画資料として利用した例があったのか否かという話題が出ました。

『聖戦士ダンバイン』「東京上空」の回(16話)辺りで使われたのではないかと予想しましたが、先日、仮説を裏付ける資料を見つけましたので、報告します。

画像は、ダンバイン17話の絵コンテです。写真が貼付され、2枚目の最初のコマは、その写真に基づく構図を取っています。
あくまで一例であって断言はできませんが、やはり必要に応じて利用されていたのではないかと思います。


あと、話は変わりますが、現在発売中の『季刊エス』に渡部隆氏のインタビューが掲載されています。レイアウトコミュ的には要チェックですよ!

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